第98話    未  練   平成16年05月01日

過去に釣った魚を記憶に留めている事は、意外に少ない。記憶にあるのは釣った魚が大きかったかという事より、大きいのをバラシタしたとか、玉アミでスクイそこねてしまったかのいずれかである。釣り人とはそんなものでないかと思うのは自分だけか?

最近の私は釣りに行く時、必ずしも大きいのを釣りに行くとは思わなくなった。欲がなくなったのである。確かに若い時は大型を求めて釣行をしていた事もある。今は釣れても釣れなくとも釣に行ける事、そのものが楽しいのだ。釣れた、釣れないは結果論で、その過程を楽しみに行く釣が多くなった。ただ無心に糸を垂れているそんな自分を楽しみたいと云うのが本音である。釣りをしている自分を第三者の自分が見ている時、なんてバカな事をしているのかと思う事がある。女房は「釣なんて・・・釣れるか釣れないか、分からない雑魚を待っているなんて馬鹿じゃあないの!雑魚釣って何が面白いの?」と毎回のように云う。そして決まって夕方に行く事が多いので「釣はいい加減にして、夕飯の時間に間に合うように早く帰って来て!」とはいつもの事だ。

南に20数`にある上磯の何処でバラシタのは大きかったとか、酒田北港の離岸提のはもっと大きかったとか、また下磯と呼ばれる秋田との県境の小砂川漁港の夜釣りでバラシタ黒鯛は大きくはなかったけれど何故か引きが良かった等・・・。何時もの事であるが、バラシタ魚は概して実物よりより大きく感じさせると云うが、それは本当だ。釣り人のホラ話と同じで時を経ると段々と大きくなって来る。そしてバラシタクロダイは、釣り上げた魚より何時までも覚えているのも不思議である。

昭和48年頃の晩夏の北港の深夜の離岸提で、月もない真暗闇の中で懐中電灯を頼りに釣友達に三回すくいそこねられた末にバラした黒鯛は、二十数年経った今でも忘れる事は出来ない。三十数分の格闘の末やっと寄せた黒鯛である。夜の十一時半頃、外海で当りがなくて、内海の方に釣座を切替えたとたんにその魚が来た。餌は岩マエである。クロを寄せるために結構後ろに下がっていたので、釣れた魚を良く見えなかったものだから、尚更のように悔しい。だが、同行の友二人はっきりと見ていた。手ごたえから云って確実に50cmは楽に超えていたらしい。「50は軽く超えていた」と友もそう云っていた。それで居て自分がすくい損ねて、バラしたのは、結構忘れてしまっているのに、二十数年前の事を昨日のごとくにはっきりと覚えている。そんな私は「腹が小さい。尻の穴が小さい」と云われれば其れまでだが、何時までも未練がましい自分に自分が呆れている。しかし、そんな未練がましく、何時までも覚えている自分が可笑しくもある。所詮、釣り人なんて未練を引き釣りながら、多かれ少なかれそんなものだと自分自身に云い聞かせている。釣の未練ならいくらでもある。未練は数限りない。

未練があればあるほど釣の技術が向上し、次回の釣行のチャレンジが生まれた来る。釣は日々反省と工夫の積み重ねである。だから納得のいく釣などこの年になってもした事が無い。これからもそんな未練がましい釣を重ねて行こうと思っている。